
先日、映画“Crash”を観た。
私は映画を観るときは下調べをしないことをモットーとしてきた。そんなせいかかつては意外性に感動したりすることもあれば、ん?アレ?・・・

終わりですか!?みたいなことも多々あった。それはそれで楽しみの一つだったのだが最近はナカナカ時間の確保自体が困難となり、劇場で観れる貴重な時間とお金は有効に使いたいなんてセコイ親父心も働いて最低限の情報は取るようにしている。そんな甲斐あってここのところ劇場で観る映画は殆どしてやったりのアタリ!であるような気がする。この辺のインプレはまた後日にでも・・・。
本題に戻って“Crash”。最低限の下調べとしては、サンドラ・ブロック、ドン・チードル、マット・デュロンの主戦級に“ミリオンダラーベイビー”のポール・ハギスの企画・制作。少々社会派の感動もの・・・かな?大ハズシはないだろう、と思いながら劇場に足を運んだ。
結果、恐れ入った、完璧だった・・・、と私は感じる。
完璧にも色々種類あるだろうが「カンペキ!」ではなく「完璧だった・・・」だった。
涙は出ない、笑いもない、怒りも感じない、元気が出るわけでもない。
でも何なのだろう?この深く長い余韻と共感は・・・。
ストリー自体についての説明は、
オフィシャルサイトに委ねる。
生意気にも評価という視点でコメントさせてもらえば造り手のセンスとクレバーさを感じる作品と言いたい。
浅い情報を眺めると主演はサンドラ・ブロックであるかに見えるが、実際のところこの作品に主演はいない。むしろ登場者全てが主演と言った方が主旨に沿っているかもしれない。
この作品のメッセージをどう受け取るかは人によって千差万別かもしれない。この作品のテーマビジュアルが何種類も存在する訳が理解できた気がする。人種差別というテーマが存在しているが、これはメッセージを伝達する一つのファクターでしかないと感じる。アメリカにおける正直な日常性から目をそむけない状態でこの映画を観てもらうための手段だったのかとも思う。私自身、差別自体がどうこうという感情は殆ど残っていない。
寧ろ、人間の中にある多面性・・・醜さ、美しさ、迷い、潔さ、救い、裁き、危機、安堵・・・その存在は誰にもある現実であり、それが社会の縮図ともなっているのだということを改めて認識できたような気がする。悪い人が社会の暗をつくり、良い人が明をつくるのではない。一人一人の明と暗の集合によって社会の明と暗が構成されているのだなと。
観終わって何日かたった今、このブログを書きながら思うこと。それは我々は自分の中にある一部分のファクターに固執してその時の自分のステイタスを決め込みがちであるということ。ついてない、分かってくれない、俺は凄い、素晴らしい、こんなに頑張ってるのに・・・とか。でも実は自分の気持ちにそぐう以外の部分を見落としている、或いは見ることを避けて可愛い自分を肯定できる拠り所を見出しているのだなと。良い悪いではなく現実がそうなのだろうという視点をもてたことを有意義に感じる。
ストーリーの中では沢山の登場人物の夫々の視点が目まぐるしくスイッチする。しかし、観ていると自然に全ての登場人物の視点に無理なく等身大で入り込める。入り込みながらも、不思議ともう一人の自分が社会を俯瞰で眺めているから混乱することも無い。ポール・ハギスの計算しつくされた構成に私は完全に嵌っていたのだと思う。ストーリー、人物、映像、音、演出の全てのパッケージングの最適なコラボが完成していた。原案から脚本、監督までを一気通貫させた妙なのだろう。
強いて挙げれば、Crash(この作品の中では人と人がぶつかる接点を指していると思う)の起こる頻度が現実の数倍のペースで現れるが映画という枠組みを通した表現の中では必要不可欠だったと思う。途中、サンドラ・ブロックのポジションは必要なのかと感じる瞬間もあったが、これもやはりこれなくしてこの深みは成立しなかったと確信する。
気がつけば整理できないまま長々と書いてしまったが、この作品が私に与えてくれた深く、長い静かなる感動を表現しきれない自分の稚拙さが歯痒い。凡人親父の日記としてお許し頂きたい。
沢山の人が自分の目と耳と心で感じたインプレを聞いてみたいものだ。